ママは、狂ってる。
そう気付いたのはいつからだっけ?








やさしい狂気









「それでパパはその時何て言ったの?」
「私の目をじとーっと見つめて、好きですって」
「ママの名前を呼んで?」
「そうよ。が好きですって」
「ママはなんて答えたの?」
「目をとっても見開いて言うものだから、思わず笑っちゃったの」
「えー!パパ可哀想」
「でもちゃんとその後言ったわ。私もLが好きよってね」






それは初めてパパとママがおとことおんなの関係になった時のお話。
このお話はママの十八番で、雲一つなく晴れた日の昼間や爽やかな風が窓から流れ込む夕方にはよく
このお話をしてくれた。
あたしはこのお話を聞くのが大好きだった。



パパとママは施設という所で育った。
物心ついた時からずっと一緒で、ママの世界はパパを中心に回ってた、らしい。
パパもママもお互いのパパやママ(あたしのおじいちゃんおばあちゃんにあたる人達)を知らなくて、
その代わり二人は家族以上の絆を持っていた。



そして二人はやがて恋に堕ちる。


ママが言うには、それは偶然で必然だったのだそうだ。





「偶然で必然?」
「そうよ」
「よく判らないな」
「あら、とても単純で簡単じゃない」





とにかく二人は出会うべくして出会って、恋をした。

それはパパもママも生まれる前から決まっていたそうだ。






「あなたもいつか恋に堕ちればきっと判るわ」






そう言ってあたしの髪を愛おしそうに撫でるママは、はっとするぐらい綺麗だった。
でもそれは野に咲く花のように強くて健康的な美しさではなく、都会に降る雪のように触れればすぐ
にでも溶けて消えてしまいそうな儚い美しさのほうだった。











あたし達はよく、お布団に入りながらもしもの話をした。
もしもパパがここにいたらこんなことをするだろうね、という話だ。
ママもあたしもその時間が大好きだった。





「もしも今がちゃって扉が開いて、パパが入ってきたらパパはあたしのこと分かってくれるかな?」
「もちろんよ」
「ぎゅって抱きしめてくれる?」
「きっとじっくりあなたのことを観察してから」
「観察?」
「まん丸の瞳やママに似た鼻、真っ赤な可愛らしい口唇。小さな指の一本一本、パパゆずりの黒くて
綺麗な髪の毛」
「……?」
「今まであなたに会えなかった時間を全て取り戻すようにじっくり目に焼き付けてから、思い切り抱
きしめると思うわ」





あたしは目を閉じ、パパにじっと見つめられる所を想像する。

何だかむずむずして恥ずかしくなった。
色んなものをじっくり見るのはきっとパパの癖ね、そう言って笑うと、ママも嬉しそうに笑った。










あたしはパパの顔を知らない。



ママはいつもあたしの真っ黒な髪の毛をパパに似た美しい髪と褒めてくれた。
まん丸の目も指の爪の形もあたしとパパはびっくりするぐらい似ているらしい。
甘いものが大好きすぎる所や少し猫背な悪い所まで似ている、一度も会ったことのないパパ。


だけどあたしはパパが大好きだった。


パパのお話をする時のママも大好きだった。






「パパがね、抱きしめてくれたら言おうと思ってることがあるの」
「何て言うの?」
「初めましてだけど、大好きよって」







お布団の中でぎゅっとママに抱きついて告げると、ママはあたしの背中を撫でながら、パパはきっと
すごく喜ぶわ、ととびきり優しい音色で言った。





「……パパはちゃんとあたし達を迎えに来てくれるんだよね?」
「ええ、必ず来てくれるわ。だから」
「だから?」
「私達はここで待っていなくちゃいけない。パパが帰って来られる居場所を作らなくちゃ」
「うん」
「パパが戻るまで私達はここから何処にも行けないの。……ごめんね」
「何でママが謝るの?大丈夫よ、あたしずっとここにいる!」
「……」
「パパに会いたいもん。ずっとここにいる」








この時のあたしはまだ幼くて、ママの何処にも行けないと言った意味を


ごめんねと言った意味を、よく理解なんてしていなかった。



ただ、ここにいればパパに会える。
パパは絶対にあたし達を迎えにくる。
それだけであたしは安心して眠りにつくことができた。














中学に入って初めての夏、あたしは取り返しのつかないことをしてしまった。





それは本当に些細なことだったけど、あんなこと言うべきじゃなかったんだ。
少しだけ大人になったあたしは正直ママからパパの話を聞くのが疎ましくなっていた。


ママの話はどれも夢物語みたいで。
パパへの気持ちが恋へと変わった時の話や、忙しいパパと唯一一緒に過ごしたクリスマスの話、パパ
が解決した事件の話。

昔は何度聞いても飽きなくて、自分からせがんで聞かせてもらった物語たちもあたしにとっては色あ
せた古臭い話にしか思えなくなっていた。






結局は、この頃のあたしはママの全てを鵜呑みにするほど子供じゃなかったし、ママの全てを受け止
められるほど大人じゃなかったのだ。






現実を見て欲しかった。


いや、あたしを見て欲しかったんだ。


だからそう、紅茶の入ったカップを持ってあたしを見つめながら言ったママの一言があたしの何かに
触れたのだった。





「パパに本当に似てきたわね」





愛おしそうに嬉しそうに呟いたママに向かってあたしはひどいことを言ってしまった。





「何でもかんでもパパ、パパ、パパ、パパ!もうやめてよ!」





部屋中に響き渡る声。





「もううんざりなの!聞きたくないの!」



自分でもびっくりするぐらいの大きな声が零れだした。
だめ、こんなこと言ってはだめなんだ。



「ママおかしいよ。現実を見てよ。あたしを見てよ。」



判ってるのに、判ってるのに。



「パパはもう、……迎えになんて来ないんだよ」



あたしの言葉は溜まったものを全て吐き出すように溢れ出した。



「あたしごしに、パパを、…見ないで。それじゃあ何処にも」



何処にも、一歩も。





「……進めないよ」







気が付いたら涙が出ていた。


歪んだ視界に映るママの姿はひどく曖昧で不安定だった。
ママの瞳からは光がなくなり、がしゃんとカップが割れる音がした。
はっと冷静に戻った時には何もかもが既に遅かった。
ママもあたしも見えない糸で括り付けられたみたいにそこから動くことができなかった。




もうお互い何もしゃべらなかった。しゃべることなんて出来なかった。


その日一日ママはずっともぬけの殻みたいになってしまって、ぼんやりとした表情で夕焼けから闇に
変化していく空を見つめていた。


しんと静まり返った部屋には遠くで鳴いてる蝉の声だけが時々かすかに響いた。
窓から差し込む夕日がママの顔を照らす。





あたしはまだその時の光景を鮮明に覚えている。
それはひどく物悲しい午後のひどく物悲しい記憶。


























でも心配しないでパパ、もう今は大丈夫。
あたし、ママの傍にいようと思うんだ。
ずっと見守ろうと思うんだ。
それが出来なかったパパのためにも。
ママのやさしい狂った世界が幕を閉じる、その時まで。





















(何処にも行けない。 070802)