時はとっくに満ちてしまった。
御免なさい御免なさい御免なさい……
わたし、もう行かなくちゃ。
「抵抗、しないの?」
やっと、言葉を発することが出来た。
どれ位時間が経ったのだろう。
目を覚ました男から視線を外せないまま、まだ数分しか経過してないはずなのに、もう何時間もそうし
ているように思えた。
「わたしは本気よ?」
窓から差し込む月明かりが、男の上に馬乗りになって、喉元に刀の切っ先を当てているわたしを、弱弱
しく照らしていた。
男は何も云わない。
夜のねっとりとした空気を纏ったこの部屋は、耳鳴りがするくらい不気味に静かだった。
「この状況を理解してる?早く、刀を取りなさいよ」
少し手を伸ばせば掴むことが出来る位置に斬魄刀があるというのに、男は体勢を崩さぬまま、一向に動
く気配がない。
じわり、と両手から汗が出るのを感じた。
刀を握り締める手も、冷たく言い放った声も、少しだけ震えているのが自分でも判った。
嗚呼、わたしは何時の間にこんなに弱い女になってしまったのだろう。
それでも視線だけは逸らすまいと、男の碧い瞳を捕らえ続ける。
少しでも視線を逸らせば、決心が揺らいでしまいそうだった。
「それは、出来ないよ」
男の口唇が微かに動き、耳に馴染んだ優しい声がそう紡いだ。
「貴方、殺されかけているのよ?」
「うん」
「わたしは貴方を裏切っていたのよ?……悔しいと思わないの?憎いと思わないの?」
毅然とした男の態度に段々と苛立ちが募る。
ぐっと両手に力を入れると、月明かりの反射で煌めいたわたしの握っている銀色のそれが男の首に浅く
食い込み、真っ白な肌から深紅の血がツーっと静かに流れ出た。
わたしは彼の心を利用していた。
そっと心の隙間に忍び寄り、何食わぬ顔で恋人のふりをして男を暗殺する機会を狙っていたのだ。
指令を受けたあの日からずっとわたしは彼を裏切り続けた。
それがわたしの仕事であり、生き伸びる為の手段だったから。
上からの命令は絶対で、幼い頃からそういう世界で生きてきた。
此のスタンスで、まるで虫螻を踏み潰すように何人もの死神を殺してきたのだ。
なのに、嗚呼。
目の前の男を早く片付けなければと思うのに、心の奥の奥で本能が悲鳴を上げていた。
そんな優しい目で、わたしを見ないで
「早くわたしを突き飛ばしなさいよッ!」
貴方から遠ざけて。
早く、わたしを遠ざけて。
「何とか云いなさいよッ!」
ねぇ、いっそ憎んで。
嫌って、蔑んで、罵って。
「刀を、わた…っ‥しに、向けな…さ、いよっ…‥」
如何してわたしは、イヅルの温もりを覚えてしまった?
どうして わたしは、 イヅルを あいして しまった?
「僕は、初めから気付いていたんだ」
「……?」
「知ってて君を傍に置いていた。それでも一緒にいたかったから、ずっと知らないふりをしてた」
だから、お互い様だろ?そう云って男は手を伸ばし、まるで大切な宝物を扱うようにわたしの髪をゆっ
くりと梳き、頬を撫ぜた。
「君に殺されるなら、本望だ」
ぽたり、ぽたりと雫が少しだけ寝衣の肌蹴た男の滑らかな胸に落ちてゆく。
「ほら、。仕事だろ?僕は大丈夫だから」
「……イヅ、ル…‥。」
「何も心配しなくていい。君に出逢えただけで僕は幸せだったから」
視界が歪んで、世界を上手く取られることが出来ない。
頬に当てられた男の手の温もりだけが、世界の全てだった…。
男に向けた刀を投げ飛ばし、男の手に自分の手を重ねる。
思い切り投げた刀は壁に当たり、かしゃんと間抜けな音を出した。
嗚呼、貴方はバカな男。
「……?」
血が固まってしまった男の傷口にそっと舌を這わせると、男の口唇からうっと小さく声が漏れた。
その口唇に自分のそれを押し付け、深く深く求め合めあう。
意識が飛びそうなほど、なんとも言えない感情が体中を駆け巡った。
わたしを包み込むその暖かい大きな手を、耳元に届く吐息を、真っ直ぐなその瞳を。
二度と忘れることのないように体に焼き付けた。
背徳者のセレナーデ
さようなら、愛しい人。
さようなら、愛をくれた人。
わたし、もう行かなくちゃ。
(”…”を使いすぎた。 20070906)
photo by 塵抹