名前を呼ばれるだけでも、胸が締め付けられるような
彼を思い出しては静かに、涙を流してしまうような
わたしはそんな、恋をしている。
わたしの恋焦がれる人は、優しくて暖かくて柔らかな笑顔がとても似合う上司だった。
朝、目を覚ました時も、昼間に仕事をしている最中も、夜眠りにつく時も彼のことばかりを考えている。
強く強く、彼を想う。想うのは簡単だ。目を閉じて、すれ違った時の彼の香りを。偶然にも手が触れ合
った時の彼の体温を。くん、と優しい音色でわたしを呼ぶ彼の声を、思い起こせばいい。
だけど自己完結で終わってしまうこの想いは、どんどんどんどん積もる。積もる。
わたしの体の中は如何しようもないくらい彼でいっぱいなのに、どんなに、どんなに想ったって1ミ
リも伝わってなんかはいない。切ない、苦しい、痛い。
捌け口のないこの想いは、空気を入れすぎて膨らんだ風船のようにいつか破裂してしまうのだろうか。
こんなにまで好きになってしまった理由を問われれば返答に困ってしまう。だって恋に理由なんかな
いのだ。理屈じゃない。気付けば、目が彼を追っていた。体中が彼を欲していた。
何が好きで、何が嫌いで、何を考えているのか。
彼の全てが知りたくて。1秒たりとも逃せなくて、いつでも目が離せなかった。
だからこそ、必然的に見たくないものも見えてしまうのだ。
ますます彼を好きになってしまうような行動も、思わず微笑んでしまう彼の仕草も、そして目を瞑りた
くなるような現実も、一緒になってわたしの視覚は捉えてしまう。
ほら、今日も見てしまった。ペンを握り締めながら、窓の外を眺める彼の視線の先を。
「イヅル、さん」
「……」
「イヅルさん?」
二度目の問いかけで、ようやくわたしに気付いたイヅルさんはごめんごめんと言いながら照れ笑いを
浮かべた。
「どうかしたかい?」
わたしの声も届かないくらいだったのかな?
ねえ、イヅルさん。
どうしたら、どうしたら?
「もし……」
「もし?」
もし、わたしの髪が彼女のような黒くて美しい髪だったら
もし、わたしの声が彼女と同じくらい愛らしく貴方の名前を紡いだら
もし、わたしの瞳が彼女のように貴方を見つめることが出来るようになったら
わたしを、愛してくれますか?
どうしたら貴方は、わたしに恋焦がれてくれますか?
頭の中に浮かんだ、空しくて醜くて卑しい心の声をぐっと飲み込む。
「……やっぱり、何でもないです」
「そう?」
「少し、休憩しませんか?わたし、お茶淹れてきますね」
「あっ、僕がやるよ」
「いいですよ、たまにはわたしにも淹れさせて下さい」
笑顔でそう言って席を立つと、彼もありがとうと言って柔らかく微笑んだ。
戸棚から茶筒と湯飲みを取り出し、そっと元いた場所を振り返ると、彼は再び窓の外を眺めていた。
視線の先には愛らしく微笑み、仕事に励むあの人。
視線の先はいつも、
きっと彼もまた、同じような
恋を、している。
(一方通行 070704)
photo by 七ツ森